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両祖師絵伝(江戸時代)大念佛寺蔵
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両祖師絵伝(江戸時代)大念佛寺蔵
法明上人は、弘安2年(1279)河内深江の里でお生まれになりました。父君は清原右京亮守道、母君は河内平岡神司主計守の息女で桔梗の前と称されます。長くお二人に世継が無く、信貴山に参籠され毘沙門天王に懇祷され、遂にご懐妊の夢告の後、願いが叶い法明上人が誕生されることになります。幼名は信貴千代といい、成人されて権少将清原朝臣道張と名乗られました。
文武両道に長けられ、また諸芸にも練達されて諸々の人々の尊教を受けられました。
少年信貴千代を取り巻く環境は厳しい状況でした。成人前の12歳のころご両親ともに病で失うことになります。さらにまた、成人して御台を迎え子どもを儲けられますが、疫病流行の波にのまれて、母子おふたりともはかなくこの世を去られてしまいます。ここに至って世の無常を思い、出家を決意されることになります。25歳の年、
世の中の憂きは御法のしるべかな火宅の宿を今や出けん
と壁に記して、高野山に登り真福院俊賢法印を師匠とし出家、名を法明房良尊と改められました。
今から約700年前のこと、元亨元年(1321)法明上人43歳の秋、朝霧の高野街道を京方面へ約七里余、茄子作(枚方市)まで来た時でありました。折りしも同じ街道を北から装束姿の石清水八幡宮社司小川伊高公一行が、木箱を数個積んだ荷車を牛に曳かせてとおりかかり、そこで出会うことになったのです。
天野川を渡り、三差路の所で社人の一人が法明坊に「深江の里に行くには、どちらの道を辿ればよろしいか」と問う。「これより南の方角に行けば中河内へ出ます。が、さて深江のなにがしへ行かれるのか。」「深江には法明上人という高僧が庵を構えて衆生教化に当たっておられる。その元へまいるのです。」法明坊は驚いて「法明は私ですが。」と名乗った。「えっ、法明さまで。実は私ども、石清水八幡宮の使者ですが、昨夜八幡さまから霊告を受け、長らく社殿にお預かりしていた大念佛寺の宝物すべてを、深江の法明上人の元へ届けよとのこと。そこで今朝より急いで深江の里にまいるところでした。」「これは奇遇。昨夜、私も神勅を蒙り融通妙法の偈文の伝授を受け、その霊宝を受け取りに参るところでした。」
法明上人は、歓喜のあまり、路傍の松の大木に五軸の尊像を掛け並べ、さらに開祖良忍上人が鳥羽上皇から拝受の鏡鉦を打ち鳴らし、
弥陀所伝 融通念佛 億百万遍 功徳円満
と声高に踊躍念仏を唱えられました。
有る夜、法明上人は加古の教信という僧の夢を見られました。加古の教信は法明上人の時代より400年以上も前に出られた奈良興福寺の学僧で、晩年の約30年間は念仏一途の生活を送り、阿弥陀如来の再来と崇められた聖です。その教信が夢に出てきて「この度、貴僧が融通念佛の正統を相続し、全国にその教えを広めようと努力していることはまことに殊勝である。これは阿弥陀如来の本懐であって、また、三世諸仏の本意にも叶い大慶至極。この末世濁乱の世に生を受けた諸人を融通念佛で救ってください。」と励ましました。
法明上人は、この霊夢に感激し、元亨3年(1323)、数人の弟子を伴い、加古の教信に因む遺跡に表敬の旅に出ることにし、摂津難波の浦から船出をされたのです。
難波の浦を出てまもなく、沖にさしかかった時、俄かに怪しい黒い雲が空を覆い強烈な風雨に遭遇します。船は木の葉のように翻弄され荒波に呑み込まれそうになります。船頭は竜神の仕業だといい、法明上人が大切に抱える鳥羽上皇直授の鏡鉦を嵐を鎮めるために、海中に沈め与えよと哀願します。法明上人は、葛藤と苦悩のなか「霊宝は尊し。されど、人命、なお何ものにも替え難し。」と溢れる涙をこらえ、鏡鉦を海中に投げ入れました。
すると不思議。今まで狂い猛っていた怒涛は見る見るうちにおさまり、雲の間から太陽の光さえ差し込んでくるのでした。そして船旅は予定通り続けることができたのです。
加古の教信への表敬の中国路の旅を無事に終え、法明上人は帰路につかれます。船は明石の海峡を過ぎ、鳴尾の沖に差し掛かります。あの日「鏡鉦」を海に沈めたのはこのあたりです。感慨にふけっていると、そうこうするうちに遙か波の彼方から小山のようなものが浮かんで、こちらの船の方に向かってやってきます。よく見るとその小山は蓬莱を背負った亀でした。そして何より、その頭上には往路このあたりで鎮めた「鏡鉦」を奉戴しているではありませんか。「鏡鉦」を差し出す亀から、法明上人まさしくその霊宝「鏡鉦」を受け取るのです。
そして、船は再び進み出しますが、亀は付いてきます。法明上人は、亀に融通念佛の口伝を授け、「名帳」に「鳴尾の霊亀」と記しました。亀はさも嬉しそうに振り返りつつ海中に戻っていきました。
法明上人齢71歳。この時代70歳を超えることは大変な長寿です。ある日弟子の興善が深江の法明上人を訪ねてきました。「師がかねてから待ち望んでおられた、二十五菩薩の面、衣装等を新調し迎講を営まれては如何ですか」と申し入れがありました。法明上人は喜んで賛意を表され、「観音菩薩の蓮台に乗り、阿弥陀如来のお導きに従って、生身のまま、往生を遂げるまでの行儀を営んでみたい。聖聚来迎の様相の実際を世の多くの人々に示してあげたい。」と申し述べられます。
正平4年(1349)法明上人は、自ら行者となって、上品上生を遂げるまでの儀式を執行されたのです。迎講、往生講などと呼ばれ、「聚衆来迎会」ともいいますが、総本山大念佛寺では毎年5月1日から5日までの5日間「万部おねり」法要のなかで、この来迎の儀式を執り行っています。