2011年12月
御遠忌(ごおんき)を迎えて(八)
常寂光土(じょうじゃっこうど)
指方立相(しほうりっそう)という西方の極楽浄土は、私たちに具体的な形をもって真実の世界、すなわち永久に変わることのない幸せの楽土への憧憬をかきたてるとともに、生きる上に大いなる希望を与えてくれるものであります。
その指方立相とは別に、今ここに生きている現実世界を喜びと幸せに満ちた世界に転回していくことを指向した此土(しど)浄土の思想があります。これを速疾往生といい、後の世を待たずに今、私たちが自分の足許をしっかりみつめ、そこが幸せの楽土といいうる世界に変えていくことをめざすものであります。この世界を常寂光土(寂光浄土)といいます。
ここは迷いと悟り、善と悪、楽と苦、美と醜、自分と他人、生と死、此岸と彼岸、この世とあの世などの一切の相対の世界を超えて、むしろこの対立する両者を一つと見ることによって得られる絶対の世界、すなわち対立し比較するという垣根を取り払ったところに存在する世界です。
この世界はすべての教えの究極であり、円満にして欠けるところがないから円教(えんぎょう)の世界といいます。この円教の世界は特別に用意されたものではなく、今、私たちが日々暮らしているこの現実世界も心ひとつのはたらきによって、円教の世界に変えていくことができるのです。
しかしこれはいうのは簡単ですが、実際、至難の業(わざ)であります。そのため仏教ではさまざまな修行があるのです。
まず相対を超えた絶対の世界といいましたが、これがなかなか難しいのです。私たちは相対の世界に住んでいます。どんなものでも他には代えられない個性の輝きを持っていることを忘れ、他と比較してものの値打ちを推し計るという習性があります。「ひとりにはひとりの仏さまがいる。ひとりにはひとりにしかない光がある」のです。
自分の子供とよその子供を比較して、得意になったり悲観したりというのもよくあることです。
あるいはまた卑近な例をとると、何百万円もするダイヤモンドと握り飯があるとして、どちらが値打ちがあるかというと、だれしもダイヤモンドというでしょう。これを指にはめるのもよし、売って大金を手に入れるのもよし。どちらにしようか、そうだしばらく指にはめて楽しんでから、売ればいい・・・。そんな考えがひらめき握り飯のことなど見向きもしません。
しかしこれが深い山中で遭難して何日も何も食べずに空腹が極限に達しているときならどうでしょう。ダイヤモンドには目もくれずに握り飯をとるに違いありません。そう考えると、この二つのものはどちらが値打ちがあるかときめつけるわけにはいきません。どちらもすばらしい値打ちがあって、そこに上下高低を云々することはできないのです。
コップ一杯の水もすばらしい値打ちに輝いています。日本人はみんなそれを知っているのです。昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され、焼けただれた体を必死に横たえながら、「水、水」といって死んでいった同朋のことを今や私たちは忘れたのでしょうか。
どんなささいなものにもすばらしい力が宿っている。他にかえられない値打ちがある。そこを絶対の世界というのです。
融通念佛宗 宗務総長
総本山大念佛寺 寺務総長