2015年までの法話

2008年06月

応供(おうぐ)に学ぶ ―人格を磨く―

仏さまのことを如来さまということはよく知られていますが、お経の中には十号といって、仏さまのお徳を十の名称で言い表しています。如来というのも十号の一つです。その十号の中に応供という呼び名があります。

応供とは供養に応ずる値打ちのある人という意味で、人からものを給与されるに足(た)る人格者ということであり、広義には広く世間の人から尊敬され、信頼される人のことを言います。

私たちは物の豊富なこの日本に住んで、しかも「まだ足らぬ」という欲望の中に生きています。そして一つ欲望がかなうと、また次のものを手に入れたいと思うものです。衣食住のどれをとっても、この思いは尽きることがありません。さらにそのあくなき欲望は物質的なものにとどまらず、地位とか名誉などについても同じことが言えるでしょう。

人から偉いと思われたい、一目(いちもく)を置いてもらいたい、頭を下げてもらいたい等、このような名誉欲(めいよよく)は傲慢(ごうまん)な人間をつくるだけです。自分では偉いと威張っていても、他人から見れば滑稽(こっけい)極(きわ)まりないものです。

"みのるほど頭(こうべ)の下がる稲穂かな"
という句があります。人は人格を磨いて徳積みをすることが大切です。そうすれば自分の愚かさや欠点が自覚され、自らを低い位置に置いてすべてのものを拝まずにはいられなくなるものです。そんな人を偉い人だと他人は尊敬するでしょう。

私たちは求める心を先行しがちですが、まず与えられるだけの資格と値打ちを具えることが肝要(かんよう)です。仏道修行とはこういうことを言うのです。

仏さまは応供と言いますから、その修業ができている人であり、人から供養を受け、信頼され、尊敬される資格と値打ちのある人のことです。世の中には資格や値打ちがないのに無理をして名誉や地位を手に入れる人もいますが、それは決して永続きしません。なぜなら神仏がそれをお許しにならないからです。神仏というと語弊があれば、自然の摂理にかなわないところには破滅があります。

本宗では口に南無阿弥陀仏と称えることによって徳積みを重ね、人格を磨く修行とします。日々、お念仏の声を絶やさない人生でありたいものです。

融通念佛宗 宗務総長
総本山大念佛寺 寺務総長

吉村 暲英
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